三方ヶ原の戦いとは、1573年に遠江国の三方ヶ原で行われた、武田信玄と徳川家康・織田信長の間の戦いです1。武田信玄は西上作戦として遠江に侵攻し、二俣城を陥落させた後、徳川家康の本陣を攻撃しました。徳川家康は武田軍の猛攻に耐えられず、敗走しましたが、一言坂で奮戦した本多忠勝や鳥居元忠らの活躍により、なんとか逃げ切ることができました234。

三方ヶ原の戦いは、武田信玄の最大の勝利とされる一方で、徳川家康の最大の敗北ともされます。
しかし、この戦いの後に武田信玄は病死し、徳川家康は再起を図ることができました。そのため、三方ヶ原の戦いは歴史の流れを大きく変える戦いではなかったとも言えます。
一言坂の戦いは、三方ヶ原の戦いの前哨戦として行われた戦いです1。武田信玄が遠江国の二俣城を包囲していたとき、徳川家康が浜松城から出陣して救援に向かいました。しかし、武田軍の先行部隊と遭遇し、一言坂と呼ばれる坂道で激しい戦闘になりました23。
徳川家康は武田軍に押されて退却しましたが、本多忠勝や内藤信成らが奮戦して、徳川軍の全滅を防ぎました43。このとき、本多忠勝は「一言も二言もなく敵に突っ込め」と叫んだと伝えられています54。そのため、この戦いは一言坂の戦いと呼ばれるようになりました51。

一言坂の戦いは、三方ヶ原の戦いの前哨戦として行われた戦いです1。武田信玄が遠江国の二俣城を包囲していたとき、徳川家康が浜松城から出陣して救援に向かいました。しかし、武田軍の先行部隊と遭遇し、一言坂と呼ばれる坂道で激しい戦闘になりました23。
徳川家康は武田軍に押されて退却しましたが、本多忠勝や内藤信成らが奮戦して、徳川軍の全滅を防ぎました43。このとき、本多忠勝は「一言も二言もなく敵に突っ込め」と叫んだと伝えられています54。そのため、この戦いは一言坂の戦いと呼ばれるようになりました51。

一言坂は静岡県磐田市にあります12。山沿いにある坂道で、当時は池田街道と呼ばれていました3。現在は一言坂の戦跡の石碑が道路沿いに建てられています45。

一言坂の名前の由来には諸説ありますが、一つの説は、本多忠勝が徳川家康に「一言お願いします。この坂を越えたら、どうなっても構いません。どうかお許し下さい」と言って殿軍を志願したことに由来するというものです123。

徳川家康は本多忠勝の志願を聞いて、「よろしい。お前は一騎も欠けることなく、浜松城まで帰って来い」と言って許可しました12。そして、本多忠勝は一言坂で武田軍と戦って、無事に浜松城まで帰還しました123。
本多忠勝は、徳川家康の家臣で、徳川四天王の一人として知られる武将・大名でした1。幼少期から家康に仕えて、数多くの戦場で功績を残しました23。勇猛な性格で、信玄や信長も羨んだと言われるほどの名将でした23。鹿角の兜がトレードマークでした3。
徳川四天王とは、徳川家康の側近として仕えて、江戸幕府の樹立に功績を立てた4人の武将のことです1。その4人は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政です21。彼らは家康の天下統一を支え続けました34。
酒井忠次は、徳川家康の親族で、家康より15歳年長の武将でした1。家康の苦労時代から地位を確立するまでの屋台骨となり、戦に政治にと活躍しました23。徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられています12。
酒井忠次は、家康の政治的な補佐役としても重要な役割を果たしました。家康が関東に移封された後、忠次は江戸城の普請奉行となり、江戸城の拡張工事を指揮しました12。また、忠次は江戸幕府の初代老中に任命され、幕政の基礎を築きました13。忠次は家康の信頼が厚く、家康が死去するまで老中の地位にあったと言われています23。
酒井忠次は、家康の関東移封に伴って、上野国・武蔵国・下総国にまたがる3万石の領地を与えられました12。しかし、忠次は自分の領地よりも息子の酒井忠勝の領地を増やしてほしいと家康に願い出ました2。家康は忠次の願いを聞き入れて、忠勝に10万石を加増しました13。忠次はその後も家康に仕え続け、死去するまで3万石のままでした12。
酒井忠勝という名前の人物は、江戸時代に二人存在します。一人は、酒井忠次の孫で、出羽国庄内藩の初代藩主となった酒井忠勝1です。もう一人は、酒井忠次の三男で、武蔵国川越藩の第2代藩主、後に若狭国小浜藩の初代藩主となった酒井忠勝2です。この酒井忠勝は、徳川家光から徳川家綱時代にかけて老中や大老として幕政を担いました2。
若狭国小浜藩の酒井忠勝は、酒井忠次の三男として生まれました1。元和9年(1623年)、兄の酒井忠世が死去したため、川越藩の第2代藩主となりました1。寛永13年(1636年)、徳川家光の命により、若狭国小浜に移封されました12。このとき、越前敦賀郡・近江・安房・下野にも領地を加増され、合計12万3500石の大名となりました2。忠勝は、老中や大老として幕府の重要な政務を担当しました1。寛文12年(1672年)、86歳で死去しました1。
酒井忠勝には、酒井忠朝、青木可一、酒井忠直の3人の子がいました1。忠朝は、父の跡を継いで小浜藩の第2代藩主となりました2。忠直は、越後高田藩の初代藩主となりました2。青木可一は、青木家の養子となりました2。酒井忠勝の子孫は、小浜藩や高田藩などで明治まで続きました23。